臨床とことば―心理学と哲学のあわいに探る臨床の知
2005年10月7日 ノンフィクション「顔」を知っているということは、その造形を細部にまで熟知しているということではないのだ。そして誰かの「顔」はときに、そのひとの漠とした後ろ姿でも掌のたたずまいでもありうる。「顔」はそのひとがわたしにふれるときのその気配とでもいうべきものだ。だから声も、そのひとのことを想うときにかならず響いてくるものであれば、それはそのひとの「顔」だと言ってよい。「きめ」は「肌理」とも書くが、まさに声はわたしの皮膚にふれてくる他者の「顔」なのだ。ひとにとって「言葉」とは何なのか?「人間存在」とは?「他者」とは?・・・について、ふたりの臨床家が語り合ったダイアローグ。そのときどきの心のあり様によって、響いてくる言葉は違うのだろうなと思いながら読了。
余談ですが、私はひとの顔をほとんど覚えられないタチでして、日常生活に支障が出てきたりして悩ましいのですが、上記の文章を読んでちょっと安心した。そうなのよね。声とか気配のほうがずっと、そのひとの顔だったりするんだよな。
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