彼らが懐かしんで「ケーキ(景気)時代」と呼ぶその時代は、1946年から51年までの6年ほどだが、沖縄中がヒステリー状態になったように、子供から老人までこぞって密貿易にかかわるという異様な時代であった。混乱、欺瞞、陰謀に明け暮れながら、しかし冒険の時代でもあった。誰にも拘束されないかわりに、才覚と度胸ひとつで大金をつかむことができた時代でもあった。彼らが「女親分」という夏子は、しかし彼らの上に君臨したわけではなかった。「貧しかったが、夢があった」時代の、いわば象徴的な存在だったという。
台湾と八重山の関係、沖縄大密貿易時代の話はなんとなく聞きかじって知っていたので、興味深く読了。「闇商売の親分」と称されたナツコが「一時代の象徴的存在だった」というあたりの高揚感がとても伝わってきた。沖縄本島ならいざしらず、八重山の地名がひんぱんに出てくるので、地理的感覚がないと読みにくいかも。。。『豚と沖縄独立』(下嶋哲朗)や『美麗島まで』(与那原恵)と合わせて読むと、第二次世界大戦前後の沖縄をより深く知ることができると思う。

与那国にとって、台湾は石垣島や沖縄本島よりもはるかに身近であり、普段着で通える島だった。1945年8月15日、日本の台湾統治に終止符が打たれ、台湾と与那国の間に政治上の国境線ができたが、そこで生活する住民に国境はなく、「ちょっとそこまで」の感覚は戦後になっても生きていた。
石垣島在住の友だちは当然のことながら「八重山毎日新聞」を購読している。「全国紙なんて読んでも実感がわかない」のが理由なのだと言うが、かくいう八重山毎日新聞も相当「眼からウロコ」な話題が少なくない。

以前、石垣-離島間を飛ぶRACの定期便が赤字続きで廃線に追い込まれそうになっていたとき、「台湾との行き来をもっと自由にさせてくれさえすれば・・・」と、島のひとたちが切実に願っているということを知った。少子高齢化が都会より深刻な島では、むしろ当然の感覚なのだろうけれど、そんなこと全然思いあたらなかった。行政にたずさわるひとたちにしてみても、似たようなものだろう。海にあっては、国境線は見えない。境界に立つと、国境というものをあらためて考えてしまう。

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