「聴く」というのは、なにもしないで耳を傾けるという単純に受動的な行為なのではない。それは語る側からすれば、ことばを受けとめてもらったという、たしかな出来事である。こうして目の前の相手は、口を開きはじめる。得体の知れない不安の実態が何なのか、相手の胸を借りながら捜し求める。―「聴く」「届く」「遇う」「迎え入れる」「触わる」「享ける」「応える」etc.etc. 哲学を社会につなげ、『臨床哲学』の可能性を追求する一冊。

自分自身、初対面のひとを前にすると、不自然なまでに口ごもるか、突拍子もないことを口走るかのどちらかなので、根掘り葉掘りたずねられるのは、どうも虫が好かない。そんな私が、ときとして聞き役にまわる。そのことが、いまでもすこし後ろめたい。せめても限られた時間のなかで、できるかぎりの信頼関係を築きたいと、切に思う。つたない経験ながら感じるのは、相手のことばにうなずくこと、ときに同じことばを繰り返す行為を重ねることで、私たちは相手を深く理解してゆくのだ―ということ。絶妙な切りかえしだとか、相手に有無も言わせないような説得力を持った物言いだとか、そういうのが重要なのじゃなくて。「聴く」ということは、つくづく奥が深い。相手をどれだけ受容することができるか、その度量をいつもためされているような心持ちがする。

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