〈犯罪被害者〉が報道を変える
2005年5月26日 ノンフィクション取材に来るときは、固定観念だけは捨ててください。何も考えていない記者と、すでに頭のなかで記事ができている記者は困ります。脚色した犠牲者像ではなく、遺族たちの現実を知っていただきたいのです。―事件の被害者が本当に望んでいることとは・・・被害者と取材者が何度も語り合った記録。脱線事故直後から、職場には1日に何度となく「顔写真を提供してください」という電話がかかってきた。正直、生理的な嫌悪感がつのっていった。身近に感じる事故だった半面、この1ヶ月、関連記事はほとんど読んでいない。「扇情的な報道のどこに意味があるの?」と、こちらが思わず感情的になったりもした。でも本心を言えば、怖くて読めなかった。いまさらながらだが、メディア・スクラムという言葉が初めて実感を持って感じられた。
加熱する今回の報道を、冷ややかな目で見ていた視聴者も少なくないと聞くが、だからといってメディアを全体として、組織として捉えしまうと、見えてこない部分もあるのかもしれない・・・ということを、とある駆け出しの記者のブログを読んでいて思った。「後ろめたさに立ち尽くす現場に、幾度となく居合わせた」と、それはとても率直な言葉で書き綴られた日記だった。
新人記者の頃、涙にくれる遺族にカメラを恐るおそる向け、刺すような視線が向けられるなかで、すばやくシャッターを切った。・・・やがてためらうことなくカメラを向けるようになる。ある種、オウム真理教の信者が一線を越えていった経過に似ている。(勉強会に参加した記者の言葉)ことの経過をこんなふうに感じている記者のひともいるんだと、逆に驚いたというと失礼なのかもしれないが・・・やはり「私」を主語にすると、すいぶんものの見え方は変わってくる。当然のことながら取材者もまた、個人なのだから。
事件にあって深く傷つき、人間不信のなかにある人たちの前に立つとき、私は全身を試されているような気がする。私がどんな人間で、何を悩み、生きているか、どれほどの井戸の深さを持ち合わせているのか、そのすべてを見抜かれている気がする。・・・ひとがひとを「わかる」ということは、何とむずかしいことなのだろうか。新聞記者でこの本の編者、河原理子さんが書かれた第四章より引用。これもまた、何度もどきりとする文章なのでした。
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