NONFIX シリーズ憲法 第3回 『忘却』
2005年5月4日 映画「罪を感じる能力だけがわたしたちを人間的にする。客観的に見てわたしたちに罪がない場合にはとりわけそうである」これは、アウシュビッツの生還者の言葉だ。歴史に対するこのような態度を人間的と捉えるか、自虐的と捉えるかで、そこで人間も国もふたつにわかれるのだろう。記憶か、忘却か・・・「NONFIXシリーズ憲法」の第3回。「憲法第9条」をテーマに選んだのは、是枝裕和監督。自分史をひもときながら、戦争の記憶がどのように記憶され、また忘却されるのかを考えていくという作品。
「ウルトラマン」を正義と信じていた子供時代の写真や、映画祭で訪れた沖縄や広島、ワールドトレードセンター跡地やベトナム戦争記念碑、アウシュビッツ強制収容所跡、監督のお父さんの生まれ故郷・台湾 etc.etc.背景には風景映像がずっと映し出されるのだけれど、基本的には全編、監督のモノローグ。いつになく饒舌な監督に驚きつつ、思わず姿勢を正して、私も「聞く耳」になりました。
確かにこの作品は一見、私的ドキュメンタリーに見えるのだけれど、極個人的な事情を掘り下げることで、普遍的な視座を獲得しようと試みた・・・その過程が描かれているのだと思う。例えばウルトラマンのエピソードはこんなふうに結ばれる。
「怪獣使いと少年」のなかには町の噂に左右されず、(宇宙人と揶揄される)少年にパンを渡すひとりの女性が登場する。僕たちに求められているのは、彼女のように自らの判断でパンを売ることができる、ゆるぎない価値観を確立することではないだろうか。ウルトラマンや万博のエピソードは、私にとっては遠い話であるのだが、不思議なことにこの作品、監督のドキュメンタリーのなかではいちばん、するするっと理解できた。すとんと腑に落ちた感じと言えばいいのかな。。。
個人が個人の死を悼むメモリアルと、死者を国家が回収し、栄誉を称えるモニュメント。ワシントンでもNYでも、死者たちの記憶をこのふたつが奪いあっている・・・(そして映像はワシントンDCから、沖縄へ)こういうところに感覚のちかしさを感じるのだ、たぶん。。。
平和の礎には、沖縄戦で亡くなったすべてのひとの名前が被害者、加害者の区別なく、刻まれている。国民とか国家とか、民族とか、そういった枠組みを越えて、死者を悼む新しい可能性が、そこには示されているように思う。
ところで、反日デモが喧しくなると必ず「これまであんなに謝罪を繰り返したのに、まだ謝らないといけないのか」と憤慨される方がいるが、本当に必要とされているのは「心にもない謝罪」なんかではないのだと思う。相手の国のこと、歴史を知ろうという姿勢のほうが、ずっと求められているはずだ。他のアジア諸国と比較した場合、私たちは想像以上に日本の近現代史を知らない。お互いに罵りあう以上の関係に発展しないのは、あまりにも知識が乏しいために、対話が成り立たないからなのだ−と思うのだが、そのことが表立って問題視されることは、あまりない。
『忘却』のなかでも引用されていたが、「過去に目を閉ざすものは結局のところ、現在にも盲目となる。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすい」というのはもっともだと思う。
「忘却という名の暴力は僕たちの日常のなかにもひそんでいて、時折ふっと顔を出す」
・・・忘却という名の暴力、という言葉がいつまでも、余韻のように残る。
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