嗤う日本の「ナショナリズム」
2005年4月21日 新書80年代のはじまりは私の10代のはじまりでもあった。キャプテン翼、夕ニャン、ウゴウゴルーガ等々に夢中になった日々・・・この凡庸さを糊塗するのが、大学移行の私の課題だったわけだが、この平凡な履歴を持つがゆえに、みえてくるリアルもあるのではないか、とある時期から考えるようになった。・・・センス・エリートにもオタクにもなりきれず、そしてサヨクにもウヨクにもなれず、ブラウン管の前でギョーカイにどこまでも踊らされつづけたという履歴、消費社会的ゾンビとして生きてきた経歴は、逆に社会学的考察の出発点としては悪くないのではないかと、思うようになったのだ。著者の肩書きを見て、ずいぶん優秀なひとなのだろうなとは思ったが、あまり共感はできず。特に文章には違和感がぬぐえなかった。この感じ、何かに似ていると思って、ずっと考えていたのだけれど、「2ちゃんねるに似ているんだ」と、はたと気づいた。なんだか全部否定しちゃってるし・・・連合赤軍、糸井重里、ナンシー関etc.―70年代〜90年代に至るまでの象徴的な事件、および人物について、様々な考察が試みられるのだが、なんだか突き放した物言いで、さらには記号的なのだ。こういう言説って、すごく狭いコミュニティのなかでしか通用しないよなと思うと、なんだか寂しい気持ちになってしまった。
でも、この本、ワカモノを中心に売れているらしい。うーむ、謎が深い。
そういえば先日、『赤軍−PFLP 世界戦争宣言』というドキュメンタリー映画を観た。内容いかんよりも、上映会の会場が満員だということに驚いた。それも大半は大学生くらいの若者なのだ。いったい何を求めてこの映画を観に来ているのだろう(と、足立正生監督も思われたに違いない)。60年代や70年代を生きた大人たちが、あの時代を何も継承してこなかったことに、彼らは多少なりとも不満を持っていたりするのだろうか?日本がひらたく均等で、面白みに欠ける国であることに、物足りなさを感じていたりするのだろうか?
こういう本を読んでいると、つくづく歴史は、痛みをともなう形で記憶されるべきなのだと思ってしまう。祖父母や親たちが生きた時代は、確かに正確に理解することは難しいのかもしれないが、自分たちとは別の痛みをともなう世代として、敬意をこめて描く―ということは、本来であれば、できなくはないはずで。。。『大統領の理髪師』や『アンダーグラウンド』、『グッバイ・レーニン』や『やさしい嘘』といった映画には、そういう奥行きがあって心動かされるのだけれど、この手の社会時評はなんだかなぁ・・・という感じ。
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