最初は勇気がいった。挨拶するのにも、つま先まで震えた。あなたは最初のときのように私を見ることはなかった。・・・あなたは誰も知らないようなジャズのミュージシャンの名前はたくさん知っているのに、私の名前は何度でも忘れた。電話番号のメモもすぐにどこかにやってしまった。
そもそも、そんな男を好きになっちゃ駄目だよと、思う。でも恋の始まりは、えてしてこんな風だったような気もする。忘れたこと、忘れたこと、忘れたこと・・・でも読んでいるうちに、思い出してしまうのだ。そんな、かなしい恋の顛末を。
大阪に行っても、あなたのことを忘れたわけではなかった。例えば会社の帰り、造幣局のそばを歩きながら綺麗な月を見て、あなたも東京で同じ形の月を見ていたらいいな、と思った。私に神様はいなかったから、お月様に願った。あなたが、生きて元気でありますように。それでも会うことなんて願わなかった。いくら相手が月でもそんな天文学的確率の話は無理だと思っていた。
息をするのが苦しくなるくらい、身がよじれるくらい、切ない恋愛小説★★★★「片想いが蛇の生殺しのように続いていくのが、とても苦しくて」この中途半端な関係を何とかしなくては、と思うのに、手も足もでなくて、十二年も経ってしまった・・・主人公の「私」は本当にバカ。でも、「バカなんだから」と他人事みたいに笑えない。
出会ってから十二年がたって、私達は指一本触れたことがない。厳密にいえば、割り勘のお釣りのやりとりで中指が触れてしびれたことがあるくらい。手の中に転がりこんできた十円玉の温度で、あなたの手があたたかいことを知った。信州に行ったとき、あなたが私の車を運転した後にハンドルを握ったら少しべたべたしていて、あなたの手が脂っぽいことを知った。不快じゃなかった。そんな新情報で有頂天になった。
川上弘美さんの『センセイの鞄』が好きなひとは、きっと、この小説、好きだと思う。ただし、続編『小田切孝の言い分』は読まないほうがいい。かなしくて、凍りついてしまいそうになる。
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